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日本生まれの日本育ちなのに何故かよく「日本語がお上手ですね♪」とほめられる。
日本では南西諸島以外の場所に住んだことがないが、サンタクルス市街の地理にはタクシーの運転手なみに詳しい。

ジャングルの奥の東京、横浜

2005年12月03日

ジャングルの奥の東京、横浜
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大学卒業直後の1998年、最初に就職した場所が南米のボリビア共和国でした。
それから現在に至るまで、仕事や研究でボリビアと関わっています。
日本ではあまり知られていない国ですが、私にとっては20代の情熱を全て注ぎ込んだ青春の舞台です。
これから時々ボリビア・オタクな話をしますが、よろしかったらお付き合いください。

さて、今日のテーマは「ジャングルの中の東京、横浜」。いきなりディープな話題です^^;
ジャングルの奥の東京、横浜
http://www.forth.go.jp/tourist/worldinfo/worldmap/h09_usas.html
それはボリビア最北部のパンド県という地方にあります。パンド県はブラジルのアクレ州およびペルーのマドレ・デ・ディオス県と国境を接しています。アマゾン水系の川が多数流れアマゾン・ゴム景気に湧いた地域の最深部にあたることから、私の研究仲間の間では「奥アマゾン」と呼ばれています。

20世紀のはじめごろ、この地域は天然ゴムの生産で空前の好景気を迎えました。自動車産業の発達で世界のゴム需要が爆発的に増加したからです。イギリスやアメリカなどの企業が進出し、世界中から一攫千金を狙う出稼ぎ労働者が集まりました。まあ、カリフォルニアにおけるゴールドラッシュみたいなもんです。そして驚いたことに、世界から集まった労働者の中で最も多数を占めたのが、我らがニッポン人だったのです。

日本人労働者の子孫は今でもこの地域に多くすんでいます。しかし日本語を話す者はほとんどいません。また混血がすすんでいるため顔立ちも日本人離れしている人が多く、見た目だけで日系人と判断するのは困難です。私の1999年の調査では、県都コビハ市の住民の5.4パーセントが明らかに日本由来と判断できる姓を名乗っていました。もしかしたら、という人を含めると6.5パーセントに達します。

ジャングルの奥地に日本人労働者が残した足跡を、現在の地名に見ることができます。
ジャングルの奥の東京、横浜

http://encarta.msn.com/encnet/features/MapCenter/map.aspx
わかりますか?地図の上のほうにJapon(日本)という地名が見えますね。左側にはTokio(東京)、下のほうにはYokohama(横浜)があります。真ん中のMukdenは中国の奉天を指しているといわれ、日露戦争で日本軍に従軍した兵士が戦後ここに移住したという説があります。

私がYokohamaのもっと南のジャングルで出会った青年は、kakazu(嘉数)さんでした。その近所にはMiyata(宮田)さんやMukai(向井)さんが住んでいるという噂も聞きました。本当にビックリです。
でも私がこの類の話を始めると止まらなくなるので、続きは別の機会にしますね。


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この記事へのコメント
びっくりしました。
南米はまだ行った事が無いのですが
日系の人と関わりがあるのでしょうか?

またお話きかせてください^^
Posted by yukko at 2005年12月03日 16:25
yukkoさん、

ご訪問ありがとうございます。
そうなんです。
大学の実習で南米に行ってから、すっかりハマってしまいました。

今度南米のお友達もお呼びしますので、ぜひまた遊びに来てくださいね。
Posted by jumechi at 2005年12月03日 18:08
日本への望郷の想いが地名になったんでしょうね。重い地名ですね。
Posted by masa at 2005年12月03日 21:56
勉強になりました^^
もしかしたら、実は ITOMAN とか YOMITAN とかあったりしませんかね? ネ? ね? ね? 
Posted by ゆとよ☆のはは at 2005年12月04日 00:02
初めて知りました。
興味深く読ませていただきました。もっと詳しく知りたいです。

子孫のかた達は、日本についてはどういう気持ちをもっているのでしょう?
Posted by taka at 2005年12月04日 00:19
masaさん、

望郷の想い、強かったようですよ。
僕は彼らの遺した手記に関する研究をしていたことがあるのですが、それらは涙なしに読むことはできません。今度また紹介しますね。

ところで、TokioやYokohamaは彼らにとっての憧れの土地だったのではないかと想像しています。彼らのほとんどが農村の出身だからです。
「おらぁ東京さ行ぐのが夢だったが、、、何故が森ん中さ来ちまっただよ(涙)」なんてぼやいてたのかもしれませんね^^
Posted by jumechi at 2005年12月04日 14:46
のははさん、惜しい!

実はその後の調査で、Kakazuさんのおじいさんが旧高嶺村出身であることが判明したんですよ。ヲジイがもう少しがんばっていたら、ITOMANが実現したかも^^

でもね、もしのははさんがあの辺りの森を切り開いて、大農場でもつくって、たくさんの人を住み込みで雇って、そこをYOMITANと名乗れば、いつの日かそれが地名として登録される可能性はあるのですよ。
いかがですか挑戦しませんか???
いいなあアマゾン最後の開拓移住者(´▽`)
のははさんが素敵なオバァになる頃、プロジェクトX取材班を率いて会いに行きますよ(勝手に妄想)
Posted by jumechi at 2005年12月04日 15:24
takaさん、

興味を持っていただいて嬉しいです。コメントが全くなかったら寂しいなと心配していたんですよ。

日本に対する気持ち、よくぞ聞いてくれました。
実は私の師匠(と勝手に呼ばせてもらっている方)が1983年にこの地方の日系人を対象とする意識調査を行なったのですよ。
(「日系人」をスペイン語で説明すると、「日本人の子孫」という表現になります。)
それによると、日系人であることを常に意識していると答えた人が95パーセント、時々持つと答えた人を加えるとほぼ100パーセントだったんですよ。
そして「日系人であることにメリットがあるか?」という問いに対しては80パーセント強がどちらともいえないと解答しました。そこには特に良いことはないけど、それでも日本人の子孫であり続けるという彼らの想いが見えると思います。
彼らの心の歴史も大きなテーマなので、何回かに分けて紹介しますね。
Posted by jumechi at 2005年12月04日 15:43
自分の生まれた土地の地名ではなく、それを東京や横浜に置き換えていたのかもしれないんですね。それは、結局日本という意味なのかもしれないですね。日本の歴史の重い一面ですね。
Posted by masa at 2005年12月06日 12:15
masaさん、

私も同感です。
当時の移住者の手記には「**県人」という言葉は多く見られますが、特に同郷の人と親しくしていたような記述はありません。
また、この時代にはまだ県人会や郷友会のような組織はありませんでした。
思うに、遠い異国で少数民族になってしまった彼らが、都道府県のような小さな単位でまとまることは難しかったんじゃないでしょうか?
一人でも多くの仲間を集めるために、「日本人」というより大きな枠で団結する必要があったんだと思います。

う~ん、この話題になるといつも文章が長くなります^^;
Posted by jumechi at 2005年12月06日 20:36
 
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