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日本生まれの日本育ちなのに何故かよく「日本語がお上手ですね♪」とほめられる。
日本では南西諸島以外の場所に住んだことがないが、サンタクルス市街の地理にはタクシーの運転手なみに詳しい。

「食べる」ということ

2006年05月06日

「食べる」ということ


皆さん、こんにちは。
ゴールデンウィークをいかがお過ごしでしょうか?

私は海辺でひたすら本を読んでいました。
愛読書の『悲しき熱帯』を久しぶりに開いて見ましたが、相変わらず難解な本です。
そこでもう少し読みやすくて面白い本を探しに書店に行くと、以前から気になっていた本を見つけました。
山内昶 『ヒトはなぜペットを食べないか』 文藝春秋 2005年。

「なぜペットを」の部分は不愉快に感じる方もいらっしゃると思うのでここではあまり語りませんが、本当に不思議な問題ですね。
地球上のさまざまな生物を食べて生きているヒトが、理屈上は食べることも可能だと理解していながら、ペットには全く食欲を感じないのですから。

ここでは少し話をずらして「食」について少し考えてみたいと思います。
ヒトの歴史を振り返ると、お店に行って肉や魚を買うという行為は、つい最近始まったことが分かります。
自らの手で生き物を殺すことが、もっとも一般的な食料調達の方法でした。
当然ながら自分の肉体が多くの生き物の肉体から出来ていることを意識するようになります。

また食べることによって死んでいった生き物の魂が自らに宿るという考え方も世界中で広く見られるようです。
アイヌの祭りで聖獣である熊を殺し、祀った後でヒトがそれを食べるという習慣が知られていますが、同様の習慣はユーラシア、アメリカ、オーストラリアなどの先住民族にもありました。

「食」とは本来神聖な行為であったんですよね。
それなのに、現在ではなかなかそういう意識を持つことが難しくなっています。
理由は、自らの手で生き物を屠る機会が少なくなったから。
釣りや狩りをする人以外はほとんど皆無なのではないでしょうか。

自分が今生きているということは、紛れもなく多くの生き物が死んでいったということ。
別にそれらの生き物が憎かったわけではなく、生きるために仕方のなかったこと。
せめて彼らに感謝するなり、彼らの霊を弔うなりするのが、同じ生き物として最低限の礼儀ではないでしょうか。

話はまたまたずれてしまいますが、少年犯罪が急増し子供たちに命の尊さを教えるのが困難になってきている今日この頃、時には学校の授業で料理が出来るまでの生々しい現実を見せることも大切じゃないかと思いました。

「食べる」ということ皆さんからの愛のワンクリックが活力源です。よろしくね♪


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jumechi@休日
jumechi@休日(2006-07-29 17:07)


Posted by jumechi at 18:59│Comments(2)私生活の話
この記事へのコメント
 そうですね、ペットは食べない。

 ここで山羊を飼っている人はたくさんいるけど、本土から移住してきて、ペットだと思って飼っている人は食べない。食べるために飼っている人たちは食べちゃう。同じ山羊なのにね。おもしろいな。
Posted by tokorin at 2006年05月09日 13:43
tokorinさん、

不思議ですよね。
両方の気持ちも何となく分かるけど、どっちもうまく説明できない。

自然界の摂理だけでは合理的に説明できない、生物の世界では一見非常識に見えるけれど唯一ヒトだけが納得している行為を、文化と呼ぶのかな?
Posted by jumechi at 2006年05月09日 19:50
 
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