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おとといの記事
「南島的季節感」は、追記へのトラックバック記事において「沖縄(以下、琉球列島全体を含む)以外の日本をなんと呼ぶか」という話題に発展した。
その中で、そもそも沖縄とそれ以外の日本を区別する必要があるのか、という問いが提示された。
最初私は、区別するのは琉球王国民の末裔としての民族意識ではないかと考えた。
それなら、このような意識をなくすのではなく、むしろ他の地域の人に理解を求めることが大切ではないかとコメントした。
日本人という国民としてまとまると同時に、その中に民族的多様性を認め互いの立場を尊重しあうべきではないかとも述べた。
しかし全体としては、沖縄とそれ以外の地域を区別することに慎重な意見が多かった。
多くの人が「ヤマト」、「本土」、「内地」に嫌悪感や違和感を抱いてることから、末裔たちが何気なく使うこれらの言葉ないしその根底にある区別に差別的な意識が含まれ得ることは、ほぼ明白といえるだろう。
しかしこれらの言葉や区別する思考を取り除いたとき、果たして民族意識は、民族の多様性は維持できるのだろうか?
トラックバックしてくださったTstsshihicaさんのコメントから、そのヒントを見つけた。
「確かに理解を求めるというのも、重要ですね。ただ、この意識が、沖縄にとって沖縄の問題を考えるとき、『わった~は違うからいいさぁ~』という逃げ理由付けに使われていないだろうかとふと思っています。」(Tstsshihicaさんのコメントより引用)
日本人全体に対して「わった~は違うから」と考えるのは、多様性の維持ではなく二極化ではないだろうか?
私が多様性ではないかと考えたものは多くの人にとって二極性と捉えられており、この両者は表裏一体なのだ。
私は多様性の維持は大切だと考えるが、二極化は日本人であることの否定、そして排他的な思考につながりやすいため(必ずではないが)、沖縄自体のために好ましくないと考える。
ウチとソト、自己と他者を区別することにはこのような危険な一面も含まれるのだということに気付かされた。
余談だが、その記事のコメントにもう1つ面白い言葉があったので、紹介させて欲しい。
「沖縄の中のマイノリティー?というと語弊があるかもしれませんが、その人々が、呼称に関してどう思うか?も気にしていかないといけないような気がしています。」(Tstsshihicaさんのコメントより引用)
沖縄の中のマイノリティー、これもまた忘れてはならない問題だ。
具体的には沖縄本島(および近隣のいくつかの島)以外の人間、歴史的には琉球王朝に従属していた島の人々だ。
私のふるさと奄美大島では一般に、「シマ」と「ヤマト」を区別するときは自分たちは沖縄の側に属するが、「オキナハ」という言葉を使うときにはそこに自分たちは属さない。
周辺諸島の1つになるのだ。
最初それは奄美が鹿児島県だからだと思っていたが、宮古島出身の後輩が「沖縄の人は、、、」と本島の人間について語るのを見て宮古も奄美と同じ立場にあるのだと感じた。
さらにある人類学の先生から、「自分のことをウチナーンチュだと思っているのは本島出身者だけだよ」と聞かされ、沖縄とその周辺諸島という二項対立の概念があることを知った。
周辺諸島をひとくくりにするような概念は聞いたことがないから、おそらく「シマンチュ(奄美ではもっぱらこれが使われる)」、「ミャークンチュ」、「ヤイマンチュ」のような言葉には各々の島と他の琉球列島という二項対立が含まれているのだろう。
各々の島と沖縄本島の間に対立があるのかどうかは知らないけれど、これについてはもっと勉強してから語ろう。
さらに余談だが、私が首里に住んでいるときも名護に住んでいるときも親戚から「あんたはナーファンチュだね」と言われた。
もしかすると周辺諸島の人にとって沖縄イコール那覇なのかもしれない。
沖縄とそれ以外の地域という区別は従来の多様性の維持であり、二極化でもあり、さらに二極化したうちの一方において二極化が起きて、、、という階層化でもあるのだ。